鈴木みのる『プロレスで<自由>になる方法』(毎日新聞出版、2015)を読んで。
ずっと「自由」を求めていた、のかもしれない。
校庭に並ばされ行進をしていた小学生のころ、ふと「軍隊みたいだな」と感じた私の直感は、大学で近代教育史を学んだときに間違っていなかったことを知った。でもその直感は単なる感覚というより違和感に近いもので、「いやだな、いやだな」と怪談話の例のフレーズのように、繰り返し感じてきたものだった。その違和感を折に触れてキャッチしながら、気づいたらなんとなくこんな年齢になってしまった。
成人式かなにかで、昔の小・中学校のころの仲間に会ったときのことだったと思う。同級生だった女の子に言われた一言が、未だに引っかかっている。「昔から自由だったものねぇ」。これには衝撃を受けた。善いとか悪いとか、そういう価値判断は抜きにして、ショックを受けた。主観的には「不自由」を感じていた私は、客観的には「自由」にみえたのだ。
最近のプロレスを観ていると、「自由」という言葉をよく耳にする。いわゆる「昭和のプロレス」のキーワードが「闘魂」で、権力者への対抗、不屈の精神、反発といった意味を含んでいた一方、これまたいわゆる「平成のプロレス」の代名詞のひとつとして「自由」があるようだ。
「自由」について言及した人物として、本書の著者鈴木みのる選手と中邑真輔選手をあげることができる。おそらく両選手は「不自由」を感じていた、もしくは現在もなお折に触れて「不自由」を感じていることだろう。その違和感が両選手を「自由」へと導き、観客の私達にも「自由」を与えてくれるのだ。
では両選手はなにから「自由」になり、何を「不自由」に感じているのか。それは「闘魂」の一言によって表された「アントニオ猪木流表現方法」、つまりストロングスタイルである。でも考えてみれば、「闘魂」だって権力への対抗という意味では「自由」を求めた姿勢だったはず。しかし人を集め権力を持ち、いつのまにか「自由」を奪う存在になっていた。革命が独裁者を生み出すのと同じ構造である。
それは棚橋弘至選手からみたら「呪縛」だったかもしれないが、そのあまりにも偉大な「闘魂」に真正面から立ち向かい、自分なりの答えを出したのが、鈴木、中邑両選手だと思う。
偉大さは時に呪縛となり、時に大いなる「不自由」となるけれども、その「不自由」への違和感を自分なりに解消していくこと、これこそが「自由」になるための唯一の方法なのではないだろうか。目的があるようなないような、自分だけの道。迷わずいけよ、いけばわかるさ。あっ、「呪縛」が。