『1984、その2』
(※その1 http://www.hourz.co.jp/shinbun/?p=2987)
●正史、とは。
「自分だけが正史を書ける」と豪語している柳澤氏。
そこまで言えば言うほど、細かなウソ、間違いを指摘されても致し方ないでしょう。
世の多くは「ノンフィクション」「ドキュメンタリー」といった看板に疑いを持たないし、大手出版社という権威は強い。
ウソ、間違いだらけの本が「正しい歴史」としてまかり通るのは、危ないことだ。
前田(日明)史観とやらに対抗したこの本は、けれど佐山(聡)史観でもなく、ましてや正史でもなく、あくまでも柳澤史観である。
●ノンフィクション論
大阪での徳光康之トークショー『ファン烈伝』で、徳光「柳澤さんは司馬遼太郎でしょう」という話になった。
歴史は、語り部によってまったく変わってくる。
柳澤史観、司馬史観。
柳澤氏との対談で「ノンフィクションとは?」とぶつけた徳光先生の本来言いたかったところ、大阪からエールを送ってた自分や紅鶴店長の聞きたかったところは、
「これ、ウソとホントを混ぜてますよね?どこまでがノンフィクションなんですか?」
●プロレスマスコミ村?
柳澤「プロレス界は村社会で、プロレス記者はレスラーにとって都合のいい記事しか書かない、書けない」
「プロレスマスコミの外にいる自分だからこそ書けるものがある」《トークショー》
いわゆるプロレス記者ではないことをアドバンテージとされているが、そういう区別に意味があるのだろうか。
ノンフィクション作家という肩書きを強調するのには意味があるのかもしれないが。
●コンプレックス
柳澤「number誌でやったプロレス特集はほとんど僕の企画」《トークショー》
…徳光先生は「numberでプロレスが取り上げられると嬉しかった」と言い、そこは徳光先生の「UWF=ガンダム」論のように「ガンダム=SF?」「プロレス=スポーツ?」というコンプレックスがあったのかもしれない。
自分などは、プロレス雑誌以外でプロレスを取り扱ってくれてたら、ターザンだろうがブルータスだろうがポパイだろうがスーパー写真塾であろうが嬉しかったので、そこにコンプレックスはさほどない。
かつてあった「プロレスという言葉が嫌いな人、この指とまれ」というコピーは、前田に人差し指を立てたポーズをとらせて編集者が勝手につけたキャプションである。そうやって「プロレスとはスポーツなのかショーなのか」という二元論に陥ってコンプレックスを抱いてた当時のファンを刺激したのはあるかもしれない。
実際、自分は同じプロレスファンだったはずの同級生が「新日本も全日本もダメ、UWFは本物」と宗旨替えしていたのを体験している。
しかし、プロレスはそんな単純なものではない。
ちなみに自分の中のコンプレックスは、小さい頃はマンガ家になりたかったのに挫折した、たまに試合に出てはいるが他の立派なプロレスラーが持っているものを持ってない、である。
ところで、編集者から作家になる人のコンプレックスは、あったりするのだろうか。ないか。
●スポーツか、ショーか。
その3にて、後述する。
●インタビューされた側は話を盛る
柳澤「プロレスラーはインタビューしても、話を盛る」「インタビューしてもゲラチェックされて出せなくなる」「それによって失うものも多い」「過去の文献(証言)をいくつか照らし合わせることで正解に近いものが見えてくる」《トークショー》等々。
それを言ってしまえば、過去の文献を含めすべての証言に盛られている可能性はあり、そこを精査・検証するのがノンフィクション作家としての技量の問われるところではないか。
功罪ないまぜなターザン山本氏、相手を失明させるような重大な反則を犯す/お金で動くジェラルドゴルドーなどの証言をそのまま拝借してるが、それらの話は盛られていないのか。
結論を言えば “プロレスラーは話を盛る” 、ではない。
“インタビューを受けるすべての人” は、もちろん本音もありつつも、インタビュアー側の意図を察して期待に応えるような回答をしたり、面白くしようと話を大げさに盛ったり、昔のことなら記憶違いが出てきたり、都合の悪いことには触れなかったり、自分以外の誰かの名誉のために伏せたり、虚実ないまぜなのだ。
だからこそ、自論・自説に導くのに都合のよい証言ばかり集めない、もっともっと多角的に見ないといけない部分は、ある。
まぁ大変な作業でしょう。
徳光「ドールマンがそんなこと言うはずがない!」柳澤「それは取材者を侮辱している(ギロリッ)」……だったら、「インタビューしても盛った話しかしない!」というのも、はじめから対象への侮辱だよなあ……。
●柳澤氏の主張
柳澤「世の中にあふれている前田史観を覆す」「UWFは俺が作ったと前田は功績を独り占めしてる」「UWFの形を作ったのはルールを考案した佐山である」「UWFはのちの総合格闘技の礎を作った」《トークショー》である。なるほど。
ルールを考案したのは佐山、それは確かだ。前田「格闘技の興行で飯が食えるような土壌を作った」のは確かだ。高田vsヒクソンのために行われたPRIDEが格闘技の進化を加速させたのは確かだ。
一方で前田が「俺がUWFをひとりで作った」かのように独り占めしていたことがあったか?記憶にはない。少なくとも団体のエースとして引っ張っていた以上、中心人物として捉えられるのはしごく当然だろう。
柳澤「UWFを扱った本の表紙は前田ばかりだ」と主張するが、それは仕方あるまい。佐山は早い段階で別競技『シューティング(のち修斗)』に移って、Uを体現していたのは前田(を中心とした選手たち)だったのだから。表紙を「売れるデザイン」にするのは当たり前田のニールキック。
(※4/19追記)理念やルール作りは佐山なのだから、Uの理想を体現していたのはシューティングと言う人もいるかもしれないが、みんなが見たかったのはプロレスラーがプロレスのリングで行うものなのです。(追記、以上)
徳光「前田をなんでこんなに落とすのか!」柳澤「前田を落とすつもりで書いたのではない」…でも、それがそう読まれてしまうのだから、佐山を再評価しようとした結果の偏りだろう。
ちなみに、佐山は再評価されるまでもなく、圧倒的に評価されてるひとりである。
徳光先生は「前田を落としている」と怒りを露にしているが、決して前田だけではない。ほかの選手だって、柳澤史観によって落とされている。それは後述する。
●「ブック」と言う、間違い
柳澤氏が著書のプロモーションも兼ねて出演したABCラジオの番組ライターが、「番組のブック」「ブック破り」などと書いていた。《FB/twitter》
多く、誤解・誤用される言葉のひとつだ。
ブッカー、ブッキングのブックは、「人を手配する」という意味の動詞のBOOKである。
本=ブック、などという言葉は無い!
ましてや、ブック破り、勝ちブックといった、ネットで広まった言葉は、その概念からして間違いだ。
この誤用が、プロレスへの無理解を広めている。
そんな言葉を使っていたら、知ったかぶりだと笑われるだけだし、
「正史を書く」と豪語されるなら、それ間違ってるよと指摘くらいしたほうがよろしいかと。
言葉は生き物だから、誤用でも使っていくうちにそれが当たり前になる言葉もある。
いくら言っても当たり前にはならないのだが、当たり前と思われては困る、のだ。
ブックなどという言葉は、プロレス界に無い。
●プロレスを見る側に大切なこと
情報のパズル。
過去の記事、証言。
ピースを掘り起こし集めるのは大変な作業である。
ノンフィクションと謳われるとついそのままに信じてしまう。
メディアリテラシー能力は確かに必要だ。
でも、それよりなにより
プロレスファンとして一番、大事なことがある。
誰が何を言ってたか、どこにどう書いていたか、より、
あなたがプロレスを見たとき、どう感じたか、だ。
感性が問われているのである。