前回書いたように「抱きしめたい」が全米でヒットしてから1964年2月アメリカに旅立った。
今なら誰しもがわかると思うが、マーケティング的な意味においてベストのタイミングでアメリカに行った。
失敗例と思われるのが何とあのローリング・ストーンズ。
イギリスではビートルズの対抗馬と目されていたが、ストーンズはオリジナル曲も少なく全米でヒットもしていないまま1964年6月にアメリカに乗り込んだ。
イギリスからやってきた白人グループが、アメリカの黒人R&Bのコピーを白人の客相手に演奏しても受けるわけがない。
映画「ブルース・ブラザーズ」のビール瓶を投げられるステージシーンを思い出すようなお話。
さて、一方のビートルズは初期のシングル盤はどのような形で販売されていたのか?
こちらも悲惨なもので英EMIのアメリカ販売網は米キャピタルレコードなのだが
「抱きしめたい」までは、米キャピタルレコードは販売しておらずインディーズとは言わないが
弱小のレコード会社が販売していた。
結果的にアメリカでのデビューシングルは「ラブ・ミー・ドゥ―」ではなく「抱きしめたい」
デビューアルバムは「プリーズ・プリーズ・ミー」ではなくアメリカオリジナル編集盤「ミート・ザ・ビートルズ」
アルバムの曲目は1曲目「抱きしめたい」で後は「プリーズ・プリーズ・ミー」「ウィズ・ザ・ビートルズ」からの抜粋。
そして英オリジナルアルバムのR&Bのカバーは1曲も入っていない。
ここにもビートルズの対アメリカ戦略が表れていると推察される。
アメリカに着いたビートルズはアメリカで有名なTVショー エド・サリバンショーに出演。
上記の「抱きしめたい」はその出演時の映像。
番組は公開放送で700人の入場者に対して、5万枚の希望ハガキが届き、番組の視聴率は72%(!)
ニューヨークでは放送の間、青少年犯罪が1件も起きなかったとも言われている。
(ちょっとマユツバっぽいけど)
そしてワシントンD.Cでのコンサートを1日2回行った。
このステージは、会場の中央にしつらえたプロレス用リングの上で演奏。
ジョージ・ハリスンが昔のインタビューで「好物はゼリー・ビーンズ」と言ったため
ステージには四方八方からゼリー・ビーンズが投げつけられたという。
しばらくアメリカでの滞在が続く。
ちなみにこのビートルズのアメリカ進出には当時のお金で5万ドル(1800万ドル)使われたらしい。
今では金額的にはもっと巨額だろうが、海のものとも山のものとも思えないロックバンドに予算をかけるとは‥‥